みつりんふぁんくらぶ

観たものについてのメモ。解体的です

コードギアス 復活のルルーシュ

w/山口 奥村
バンバンネタバレするよ。

一周目。
周りの感想とか聞いたりしてると割と手放しで称賛していた印象だったし、まあ外れることはないでしょうと思って、二周目行く前提で二周目のノイズを少なくするために色んなとこに目を向けて見てたけど情報量が多い多い。
1つの場面にいろんな要素が入ってるとかそういう系の多さじゃなくて、シンプルに場面の切り替えが多くて早すぎるから情報を追うのがすごいしんどかった。
割とこの作品に関してはご都合主義上等みたいな目で見てて、ある程度ルルーシュに都合よく物事が運んでくことに対しては(アニメの時からそうだし)いいよいいよ〜〜って見てたけど今回最高のご都合主義を前提として話が進んでいくから若干怯んだ。

▽「みんながルルーシュに甘すぎる」問題
これが私にとってでかすぎた。視聴者はメタ的にしか世界の状況を見れないから、ルルーシュの意図とか思いとかを知って、彼を許すだけの要素を持ってはいるけど今回のナナリー奪還作戦の時に彼の指揮下に入った人たち、ルルーシュに甘すぎねえか?
扇玉木あたりはまあどうでもいいとして、スザク、コーネリア、ニーナあたりはそれでええんか。
そりゃルルーシュに協力することが彼らの目的じゃないし、ナナリーのためだってのはわかってるけども、それでもルルーシュに対して優しすぎんか?
ルルーシュが身を呈してゼロレクイエムしたんはわかるけど、ユフィは?ユフィのこと忘れてしもたんか?
本編で散々ユフィのこと引き合いに出してぶちぎれてたじゃん2人とも…
コーネリアとかルルーシュのこと「諦めの悪い男」みたいなこと言ってて、文章だけ見たらまあルルーシュのこと嫌いなんかな?って思うけど、どちらかというとまったくあいつは仕方ないなあみたいなニュアンスで言ってるように感じた。それでいいの?!
スザクとかさらにそれでいいの?!だったし。再会した時こそボコボコに殴ったけど最終的に「生きててよかった」ってすげえな。ゼロレクイエムのギリギリまで愛憎入り混じった葛藤に振り回されてたじゃんスザク。憎しみはボコボコにしてなくなったんか。

ゼロレクから一年経って、記憶が美化されて、頭も冷静になったら結局そうなるもんなんかな。スザクの思考がいまいち掴めなかった。空白の一年があるからなんかもしれん。

他は良かった。
さっきも言った通りある程度の出来レースやご都合主義は気にならないし、新キャラの動きや生き様もよかった。謎は残るけど尺的に仕方ないところとかはある。
あとやっぱ本編見てたファンからしたら激アツな展開これでもかってぶち込まれてて熱かったよね。ルルーシュの台詞とか、ナナリーへの執着とか、あと個人的に最高…ってなったのはランスロットのあの構え。紅蓮とランスロットすごいもったいぶってだしてきただけでもうありがとう…って感じだったのにあんなん見せられたら拳握るしかなかった。
あとナナリーとルルーシュの和解を求めなかったファンおらんでしょ。友達と見てなかったらガチ泣きしてたわ多分。ゼロレクのあとのナナリーの後悔は計り知れないじゃんねやっぱ…よかったね…

ナナリーとルルーシュをCの世界で救ったのって結局誰だったんやろ。「君たちにまた助けられるのか」みたいなこと言ってたけど。ユフィとかロロあたりかなーって思って見てた。ヒントあったのかなその前後に。見逃してたんかもしらん。

うお〜〜もう一回見たい。訳が分からんかった一周だと。時間作りたいな〜…

アマデウス

アマデウス(字幕版)

アマデウス(字幕版)

w.山口

アマデウスサリエリ」という対比はいろんな作品とかでよく引用されてるよね。なんぞやと思っていたわけ。見たいなって。
でも三時間っていう時間は個人的にはキツくて、誰かと見たかったのでシュタゲ好きな山口を召喚。

このアマデウス、調べたら戯曲がさらに下地としてあるみたい。それも見てみたいないずれは。

才能に恵まれた神に愛されし者に焦がれる凡人の話。
わたしは世界史が本当にできないので(頭が悪いから)凡人とはなんぞや?と思ってしまったりとか陛下にそんな簡単に謁見できちゃうのかとか色々思うところはあったけどストーリーは一貫してサリエリモーツァルトに嫉妬し続ける構図。
わたしこれみたことある気がするんだけど。授業で。見てないんかな。わからない。

老人になったサリエリが自殺未遂を起こして精神病棟に入って、神父に懺悔することで展開していくストーリー。こういう構図好き。そんで表題への直接的な言及が皆無なとこも好感度高かった。
サリエリの主語がどんどんでかくなっていって、最終的にモーツァルトサリエリの中で神に置き換えられちゃう。
真面目に生きてきた努力家のサリエリはどうあがいても才能に溢れたモーツァルトは越えられなかった。だから殺そうとする。精神的に追い込んで。
でもそのサリエリの計画は未遂で終わっちゃうんだけどね。その前にモーツァルト死ぬから。

その未遂も良かった。どんだけ頑張ってもモーツァルトサリエリの能力の差は縮まらないし、どうしようもないから殺すって流れだったんだよ。どれほど神に敬虔な信徒であっても神はサリエリモーツァルトを越えるためのチカラは授けてくれなかった。だからだんだんモーツァルトへの嫉妬が神の理不尽さとつながってモーツァルトへの恨みになってしまったんだよね。

でもその神(モーツァルト)が最後に縋ったのはサリエリだった。死ぬ間際にモーツァルトサリエリに代筆を頼んで、少しずつ大きなレクイエムが出来上がっていく。一呼吸置こうと思って眠ろうとする間際のモーツァルトは「あなたに嫌われていると思っていた、赦してくれ」ってサリエルに謝罪する。これ、神=モーツァルトの構図が成立しているのであれば神からの謝罪ってことになる。つまり神とサリエリの和解と、モーツァルトと神の解体への道がその時拓かれて、そこから希望ある未来へ進む兆しが見えたってことなんだけど、一歩踏み出す前にモーツァルト死んでしまったな…。だから誰も救われずに終わってしまった。

才能がなかったサリエリが唯一持っていた能力が、モーツァルトの才能を理解することだった。不評だったオペラの良さがサリエリにはわかった。たぶんここでサリエリまた拗らせるんだけどむしろ神の理解者として寄り添う未来があったのではと思ってしまうな。だからこそのラストシーンだと考えると切ないね。

サリエリの心象、理解できない人の方が少ないと思う。
映画作品としても素晴らしかった。見てください。

不機嫌は罪である

不機嫌は罪である (角川新書)

不機嫌は罪である (角川新書)

タイトルにドキッとしたやつはみんな読め。

もう少し文章考えてというか、内容をしっかりインプットしてから書こうと思ったんだけどそしたらもうめんどなって書かなくなりそうだから今書くことにした。
というか個人用だからそんなしっかり書かなくてもいいんだわ。

なんかめっっちゃ噛み砕いて、もしかしたら若干ズレてるかもしれないくらい粉々にしてから構成し直して言うと、
他責的なのはよくないよね→じゃあふっきろう!
の構図。新書だけど一種の自己啓発本みたいなもんかもしれない。
ふっきるための心の持ち方とか、具体的なノウハウ(マインドフルネスやら呼吸法やら)が書いてあるから、実践したい人は読んだらいいけどそもそも上記の「じゃあふっきろう!」の次にいやなんでそもそもこっちが自責的にならなあかんねんって思って実践に移れなさそうな人は見ても仕方ないかもしれん(わたしが一瞬思ってしまった)。

自分が変われば他人も変わる、環境が悪ければ自分の認知や言動を変えたらいいっていう本。私はこれいいなと思ったし、やっぱ齋藤孝ってたまたま有名になったわけじゃないんだなと思った。人を納得させんのが上手い。

でも自分の話をちょいちょいぶっこんでくるから声だして笑ったとこもあった。いやあんたが自分で生み出したんかいみたいな。頭固いから私が。根拠なさすぎでしょみたいなとこも否めなかった。でも行動療法やらゲシュタルト療法やらを参考にした方法(おそらく)とか結構あったから個人的にはスッと入ってきたよ。
そういうのもあんのね〜みたいな気持ちになりたいときはおすすめ。
数ある人生の悩みの解決法の一つのヒントにはなるんじゃないかな。

とある新人漫画家に、本当に起こったコワイ話

カドカワとねとらぼと風呂敷が広がりに広がりまくって一時期話題になってたやつの暴露本。
正直手にとって読むほどの関心なかったしねとらぼからの弁明とかずっと前に見て自分の中でのコンテンツ性はもうなくなってたし、世間的にも話題性完全に死んでるし、作者的にも新しい仕事してリスタート切ってたからそんな読みたくて読んだわけじゃないんだけどアマプラで読めたから惰性で暇潰しがてら読んだ。
結局人間にとって他人のゴシップっておやつだから、、、

2割くらい流し読みって感じで読んだからことの顛末くらいしか結局把握してないし批判的な目で読んでたつもりないんだけど、なにがあったか云々っていう事象よりまず最初になんでそんなうつ病への病識あったのに病院行かなかったの?って思った。
躁鬱がなんたら〜って言ってたのも自分で自分のこと診断して言ってただけで、兆候うっすら自覚し始めた時点で否認せんと医者の診断かかってればそんなに認知歪まなかっただろうしねとらぼに反論されるような記事出されんかったんでないのと思った。
仮にそれまでにメンクリ行った経験があって病識があっていかなかったんだとしたらなおのことなんで薬物治療の方法を取らんかったんだろう。

事象だけみたらそれは災難でしたねって感じ。この人の作品読んだことないけど絵も可愛いから頑張れって感じだった。読むつもりもないけど。さっきも言った通りゴシップが摂取したかっただけだから。

わたしのげぼく

わたしのげぼく

わたしのげぼく

絵本。猫の一人称視点で展開。
飼い主のこと下僕とかのたまう猫の生涯について描かれている。

これも図書館にあったから手にとったんだけどよくみたら臨床心理学科の先生の推薦で置いてあってわろた。
絵本だから立ち読みで読み切れる内容だったけど子供向けと見せかけた大人向けでしょあれ。

猫だから人よりも早く寿命がくるんだけど、そのことに関して「人よりも猫の方が俊敏で優秀だから」という解釈がなされていていろんな意味で美しかった。

これもクリニックに置いといたら心穏やかになるんやろなと思える一冊だったな。

いぬはみんなADHD

いぬは みんな ADHD

いぬは みんな ADHD

大学の図書館にあったのを手にとって読んだ。
犬の写真と一緒にADHDの概要が紹介されてて、これはうまいなと思った。なんかクリニックの待合室とかに置いてたら絶対手に取るひと多そうだよね。
姉妹作にねこはみんなアスペルガー症候群っていうのがあるらしい。

すごくポジティブで、子供向けだからわかりやすい。
人に勧めやすい。とりあえず病識がない全人類に目を通してほしい。

ちなみに犬にもADHDはあるらしいけど犬自体がほんとADHDみたいな個性を種として持ってるから識別むずそうだよね。言葉も話せないし人間に診断のしようなさそうだけどなあ

やがて君になる

最初に言わせて欲しいんだけど私ボンジュール鈴木大好きなんですよね。
だからボンジュール鈴木みがすごいサイコーサイコーサイコーなOPをまず評価したい。あれはあれで完成されてるけど欲を言えばセルフカバーをしていただきたい。

原作はスマホアプリで追ってはいるもののあまり良い印象はない。悪い印象もないんだけど話のテンポが遅すぎていままで何が起きてたか忘れるし、ジャンル的にどうしようもないんだけど淡々としている。

だからアニメはすごい見やすかったし、1クールで綺麗にまとまってて視聴後も爽やかな気分でいられた。
故人と同化したい(しなきゃいけない)けどそんな自分を愛せない七海先輩と、人を好きになる感覚がわからない侑の百合ですが、このテーマというかキャラ設定、凄く映えるな…と思った。
漫画を読んでる時にこのテーマ見て、それ百合でやる必要ある?ってメチャクチャ思ってたんだけどこのご時世そんな思考こそがナンセンスなんだよな…とアニメ見ながら反省してた。現実社会でそれをされたら何も思わないのに作品になるとひっかかるのは、意図的に全ての事象を作り上げるアニメ漫画映画諸々の創作物のいらんところまで意味づけを強要してしまうからとやが君観て感じました。ありがとうやが君。

作品としては最後まで走れたし、全然駄作だとは思わんのよ。でもいまいち心を入れてみることが出来なかったのは現実の美味しいところもしょうもないことも知ってるからなんじゃないかと思う。それは同性愛云々というよりは、思春期のあれこれ。
姉を亡くした辛さは計り知れないけれど、それを抜いたら「嫌いな自分を好きな相手を好きになれない」橙子も「誰のことも好きになれない」侑もそんなに珍しいことじゃないし、今はどうであれそんな感情を中高時代に持つことなんて全然あたりまえじゃないか?
登場人物の心象を簡略化、矮小化すなやと言われたらそれまでなんだけど、どうも私そこでテーマ自体を大切に捉えることができず冷めた目で見てしまった。それはねぇそういうもんなんじゃわみたいな。

橙子と侑の交流が絵的にも演出的にも凄く綺麗に丁寧に描かれてて良かったけど、それよりやっぱり佐伯先輩の葛藤の方に目がいってしまった。
佐伯先輩苦手なんだけど。佐伯先輩っていうか佐伯先輩みたいな弱そうだけど強く見せる女性が。でも苦手と嫌いは違うし嫌いが好きかで言ったら好き。
私の中では橙子と侑の悩みってリアルすぎて逆に非現実的で、佐伯先輩の苦悩の方が余程感情移入できたわ。頑張れ…とかあぁ…とか思うもん彼女みてたら。

侑が強すぎて、しっかり侑の内面と対峙できなかったのも没入できなかった理由かもしれない。でもネットの評価結構よかったぽいよな。二期あるんかな。二期あったらまたボンジュール鈴木でお願いします。ボンジュール鈴木じゃないんだけど。